満州事変よりも前から日本は地域開発に貢献
中国の満州といえば、日本人は満州事変(1931年)があって満州国を建国したという歴史を学校教育などで習い知っています。私もその一人です。満州国は国際社会で認められず、国際連盟を脱退し、日本は国際社会から孤立したという悲劇への道のりを歩み始めたことで、特に印象深い事件です。
しかし、とある動画に出会って、満州に対するイメージが変わることになりました。
この動画では、大正~昭和初期に日本が手掛けた満州の近代都市化や産業発展への貢献を、当時の映像を交えながら紹介してくれています。本当に素晴らしい動画です。
最も衝撃だったのは、満州事変は昭和の出来事で、大正時代にも満州の地域産業を発展させていたという事実です。
満州事変は昭和だが、大正も満州開発が盛ん
満州事変は1931年(昭和6年)で、大正時代に日本が満州に対して何故開発ができていたのか不思議に思いました。しかし、動画内でも通して解説があるのですが、この答えは南満州鉄道にあるようです。
南満州鉄道は、日本が権利を持っていた鉄道会社ですが、この利権は日露戦争(1904~1905年)から、つまり明治37年~明治38年の後のポーツマス条約で得たものです。
日本は、満州事変を起こす前から、満州の鉄道事業を中心に、経済的な発展に貢献しつつ、日本自体もそこを商業の取引先として利用することで大きな利益を上げていたことになります。動画では、その過程として大正時代~昭和初期の建造物や街の区画などの紹介が行われています。
しかし驚きなのは、日本は南満州鉄道の利権を得たというのに、鉄道の敷設だけではなく、様々な商業施設や学校など、手広く施設を建設していることです。上記画像は大連ヤマトホテルという、南満州鉄道の事業の一端として建設されたものです。
満州は鉄道だけじゃなかった
動画内では、奉天の駅や鉄道から始まるのですが、鉄道の敷設以外に、デパートなどの大型商店や中国人、日本人用それぞれの学校など、本当に幅広い施設を建設していると紹介があります。
非常にきれいに区画整理された駅周辺の街道や、そこに立ち並ぶ商店の雰囲気、中には掘り出し物が売り出されるドロボー市場など、時代風景を思い起こすような、今では考えられない当時の情景が、映像と共に紹介されます。
コメント欄にも、当時そこで生まれ育ったご年配の方が懐かしいと書き込まれており、改めて「あぁここは日本だったんだな」と感じさせます。
しかし、この南満州鉄道を良く思わない中国の方々も一定数いたようで、それらの脅威から満州の日本人関係者を守るために、軍を配備しなければならないほどでした。
満州を守るための関東軍
ここからは動画の中身である、満州の発展からは逸れて歴史的なところについて記載してみます。
元々日清戦争・日露戦争の頃は、中国は清という国だったわけで、満州の鉄道利権についても清と交わした条約がありました。満州における鉄道事業は、南満州鉄道が独占的に行うという約束です。
しかし、辛亥革命が起こって清王朝が倒れて中華民国になると、この条約は清が日本と交わした条約で無効だと主張し始め、満州に独自の鉄道網を築き始めます。これによって満州で保障されていた利権が蝕まれていくこととなり、中国人と日本人の諍いが頻発するようになりました。
これら中国人からの嫌がらせともいえる日本排斥の動きから、満州に住む日本人を守るため、関東軍という軍事組織が必要だったのです。
満州事変・日中戦争に対する新しい視点 - 中国の経済侵略への対抗措置
正直、このあたりの満州に対する中国のやり方を知るまでは、日中戦争については日本が侵略していて正当化する要素がないと思っていました。
しかし、中国の約束を反故にした経済的な侵略を受けるに伴い、満州に住む多くの日本人が危険にさらされはじめると、経済的な問題だけにとどまらず、治安的にも不安定な状況となっていきます。
こう考えていくと、世界恐慌・昭和恐慌といった経済問題を解決しつつ、日本人の安全を確保できるという「満州事変は暴走ではない」と考えることができ、石原寛治が日本人の安全と日本国の経済的な安定をもたらすために泥をかぶった形になったと考えられます。
当時の政府はこの軍部の勝手な行動に否定的でしたが、日本の世論は違ったようです。
満州国を世論が後押し - 5.15事件犯人の助命嘆願
政府は満州を経済的な支配にとどめ、傀儡国として支配するようなことは考えていませんでしたが、日本の世論は違ったようです。
この辺りは現代の日本人の感覚からは少し想像が難しいところですが、世界的に他国を侵略して植民地化するということが行われていて、満州をそのように経済以上の支配力で抑えることにあまり抵抗がなかったのでしょう。
政府に対する信頼の失墜が顕著になって、内閣が総辞職した後、新しく総理になったのが犬養毅(いぬかい つよし)です。彼は軍部に理解を見せますが、やはり満州については経済のみの支配とするという方針だったため、軍部の将校から暗殺されてしまうことになりました。「話せばわかる」という犬養毅の最後の言葉は有名です。本当に軍部の意向を理解し、最善を尽くそうと努力された総理大臣だったのでしょう。
その後5.15事件と呼ばれるようになった犬養毅の暗殺については、犯人が捕まるのですが、それに対して世論からは犯人を助けて欲しいと助命嘆願が行われたというのだから、これまた驚きです。暗殺者を許すとか、現代日本ではどんな事情でもありえなさそうです。
結局この後はよく知られている通り、内閣総理大臣には軍部関係者が就くようになっていく、いわゆる軍閥政治へと移行していくことになります。
せっかく大正時代に皆で国の行く末を決めていこうと、本当の民主主義国家になったばかりなのに、本当に激動の時代です。
まとめ - 満州への貢献に感動 -
今回の満州の動画からは、満州地域の繁栄を素直に驚き、そして日本が行った開発が本当に素晴らしかったのだなぁと感心・感動しました。
奉天駅が、まんま東京駅のようで、日本の昔の写真のようでした。
日韓併合から満州へと、大陸へ日本は版図を広げていきましたが、その新しい領地を正に自国の領土として最善の開発投資を行っていたことが、本当に誇らしく思います。というのも、海外の植民地政策については、目をそむけたくなるような重労働や過酷な仕打ちが多く、まさに「支配」というものばかりだったからです。
もちろん今回観た動画が全てとは思いませんが、明るく楽しそうに生活をされている満州の方々の笑顔は、少なくとも真実の一部ではあるでしょう。
結果論で軍部が暴走して戦争が拡大して失敗したと言われがちではありますが、日本の歴史は紐解けば紐解くほど「仕方なかった」と受け身的な対応で、止む無く戦争になっていったようにも見え始めます。
戦争は、どちらも加害者であり被害者でもあるとはよく言ったものです。
日本人の歴史観は、教育の影響もありますが、もう少し正しい形になるべきだと感じます。
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