ペリー来航から明治維新、そして終戦まで
日本の江戸時代は、徳川家による幕府体制で、鎖国政策により一部の許可された国以外には港を閉じた状態でした。諸外国から日本に対する悪影響がないように、国内を守るための政策だったと考えられます。
しかし、この日本の体制は、産業革命を終えた欧米諸国の襲来によって瓦解していくことになります。最初に起きた大きな事件はペリー来航です。
強大な科学力や軍事力を備えたアメリカの船(黒船)が日本に訪れ、開国(港の使用許可)を求めます。日本はそれを退ける力もなく、大きな力に飲み込まれていくことになります。
ペリー来航1853年から最初は徐々にでしたが、1860年に現在の日本の首相の立場でもある大老井伊直弼が暗殺された後は、怒涛のように事件が起き、そこから10年も経たずに大政奉還で江戸幕府体制は終焉を迎えます。(1868年)
今回はそんな激動の1860年代を中心に、国内で起きた海外との衝突などをまとめ、自国防衛能力のない国がどのような悲惨な道を辿るのかを確認し、その重要性を考えることにします。
今回の記事で取り扱う事件などを、以下年表に記載します。
1853年 ペリー来航
1854年 日米和親条約
1858年 日米修好通商条約
1860年 桜田門外の変
1862年 生麦事件 ~ 薩英戦争
1863年 下関戦争
1866年 薩長同盟
1868年 大政奉還
1946年 まとめ -終戦後の東京裁判-
1853年 ペリー来航は補給場所の確保が主目的
ペリー来航が海外からの侵略行為の始まりだとする場合が多いですが、ペリーの来日の主目的は「港の開港」でした。
産業革命を終えたアメリカの蒸気船は、航続距離が格段に伸びてはいましたが、太平洋などで行っていた鯨油獲得のための捕鯨船などは、補給するための港が必要な状況でした。また、海難事故等で船員が遭難した場合に、日本に救助された後の遭難者引き渡し手続きが鎖国政策のため非常に面倒な状態で、これらの解決を求めてペリーは日本へやってきたのです。
ただ、主目的は港の使用許可でしたが、当然日本に対して有利な条件を突きつけ、大きな利益をあげようとする侵略的な思想は持っていたことが推測されます。それはペリー来航以降に結ばれた条約の内容を見ていくことで分かってきます。
1854年 日米和親条約~港の開港だけのはずなのに…
ペリー来航(1853年)後すぐに締結された日米和親条約(1854年)は、基本的には「日本とアメリカの交流開始」といった内容で、港の使用許可や物品の交換方法、遭難者の引き渡し方法などの取り決めなど、当時アメリカが困っていたことに対しての内容となっていて、人道的な見地から日本も承諾したと思われます。
しかし、12条あるこの条約の中にも、早速不穏なものが紛れ込んでいます。
第9条 米国に片務的最恵国待遇を与える。
この条項にある最恵国待遇(さいけいこくたいぐう)は、アメリカに対して日本が最大の優遇措置をとるという約束になります。つまり、今後も含めてアメリカ以外の国に日本が何らかの約束事で優遇措置を行うと、それはアメリカにも適用されるようになるというものです。
最初の人道的な見地に基づく取り決めの中に、今後日本が侵食されることを見越して、このような条文を盛り込んだものと思われます。
1858年 日米修好通商条約~5か国との不平等条約
最初の日米和親条約から4年後なので少し間がありますが、1858年に不平等条約として知られる日米修好通商条約が日本とアメリカの間で締結されます。
ただ、この条約自体は不平等な内容ではなく、基本的な貿易に関する取り決めを行ったものである事には注意が必要です。
この条約締結後に、さらに改税約書という約束が交わされ、その内容が不平等になっていて、合わせて不平等条約という形になります。改税約書によって、日本は関税の自主権を失い、アメリカに対しての売価は安く固定されてしまい、逆に買い取る方は高額という関係になってしまいます。
そして、この日米修好通商条約の恐ろしいところは、この不平等な条約に便乗してくる西欧諸国がいたことにもあります。イギリス・フランス・オランダというアジア圏で植民地活動が盛んな各国に加え、ロシアとも同じ内容の条約を締結することになり、これをまとめて安政五か国条約と言います。
アジア圏の勢力図については、太平洋戦争時のABCD包囲網の記事で取り上げていますので、地理的な状況などを確認したい方はそちらもご覧ください。
当然この不平等な内容については国内からは否定的な声も上がりますが、外交交渉では圧倒的な軍事力や国力の差があり、幕府としては拒否することができませんでした。
当然日本国内では、この不平等な内容の条約を締結した幕府への反感が高まります。
1860年 桜田門外の変~日本の首相に当たる人物を暗殺
大老井伊直弼が暗殺する事件として、日本の義務教育でも習う事件です。学生時代には年号と名前を暗記するくらいにしか意識しないのではないでしょうか。
しかし、この事件には非常に大きな意味があります。
諸外国からの侵略行為である不平等条約を締結した「井伊直弼」を暗殺するほどに、日本国内における外国を排除しようとする思想が高まり、それが実際に事件として表面化されたのです。
この事件、遠い歴史の事のように思ってしまいがちですが、たった150年前ほどの出来事で、江戸城の桜田門は現在も残っており、その周辺の街並みも当時に非常に近いのです。現在官公庁などが立ち並ぶ日本の中心的な街ですが、その裏手で実際に暴徒が首相を襲ったのです。
この襲撃を実施した暴徒の多くは水戸藩の人たちです。
何故水戸藩なのかと疑問に思う人もいるかもしれませんが、水戸藩というのは水戸学の発祥の地でもあり、水戸学というのは日本で最初に「攘夷」の言葉を用いたことで知られています。攘夷というのは「外敵の排除」、つまり外国を日本から追い出そうという思想です。
そしてこの事件によって、日本政府である徳川幕府は混乱もし、人事も見直さなければならなくなります。さらに、朝廷からの要請もあって、「攘夷」を承諾することになります。つまり、日本政府の方針として、外国勢力を追い払うことを決定することになるのです。
1862年 生麦事件~不敬な外国人を切り倒し国際問題に
大名行列というのは、日本の江戸時代には非常に敬われるもので、その行列が通るときは、その他の通行人は道を譲り、頭を下げて礼を尽くしたそうです。今でいう国賓とか、大事なお客様が通る際に礼儀を尽くすのと似ていて、同じ日本なのだと感じさせてくれます。
これは日本の文化で非常に好感が持てますが、この文化が外国との衝突に結びつく事件が起こります。
1862年に、日本の神奈川県の生麦村(元神奈川県横浜市鶴見区生麦)にて、薩摩藩の島津久光の大名行列に、乗馬を楽しむイギリス人4人が遭遇します。当時は、外国の人たちが日本に観光等で訪れるようになっていた時代背景も非常に興味深いところです。
行列の周辺の警護の日本人は、そのイギリス人4名に対して道を譲るように語り掛けますが、言葉も通じず、そのイギリス人はそのまま馬を進め行列の中ほどに入っていってしまいます。さらに警告されるも馬を止めず、島津義光の乗る籠に近寄って右往左往しているところを、周辺警護の者に切り倒されるという事件になります。続けて他の者にも襲い掛かりますが、イギリス人1名は馬を走らせてその場から逃げ、救援を求めます。
事件の概要を知ると、イギリス人の不敬が引き起こしていて、元の非はイギリス人側にあるとも受け取れます。実際、当時このニュースに対するアメリカ等の報道では、「日本の文化を尊重していない行動」としてイギリス側を非難している声もあります。
しかし、殺傷してしまったのがまずかったのです。取り押さえる程度でよかったのでしょうが、当時の侍文化では切り殺すという時代だったのでしょう。そういう意味では日本はまだ「野蛮な国」とされても仕方がないとも言えます。
この事件はイギリスと日本政府である江戸幕府で何度も事件の真相や賠償について話し合うことになり、その交渉は難航します。
最終的にはイギリス・フランス・アメリカ・オランダの4か国の軍艦が横浜に入港し、軍事的な圧力で多額の賠償金を迫ってくるに至り、幕府もやむなく承諾します。
1862年 薩英戦争~薩摩藩はイギリスと戦争することに
イギリスは幕府から賠償金を得た上で、さらに薩摩藩に対しても賠償請求や犯人の逮捕と処罰を要求するため、九州の鹿児島県に軍艦7隻の艦隊で訪れます。
薩摩藩は「生麦事件に責任はない」として要求を跳ね除け、結果イギリスと薩摩藩での軍事衝突に発展し、後に薩英戦争と呼ばれることになります。
この戦争により薩摩の町の1割程度が焼失しますが、イギリスも軍艦一隻が大破し、その他にも死傷者を多く出すという結果となり、朝廷は薩摩藩の「攘夷実行」を称えたといいます。
しかし、この事件と軍事衝突によって、双方を理解する必要性を感じ、その後両者の関係が近づくことになったともされています。特に薩摩はイギリスの最新兵器などが、今後は必要になると考え、近代化を一層進めることになります。
現代の感覚では、一つの地方都市が外国の艦隊と戦争状態に突入するなど考えられませんが、当時の封建制度ならではの動きとして、非常に興味深いところです。
1863年 下関戦争~長州藩による異国船への砲撃と報復
1862年の生麦事件は神奈川で起き、その後鹿児島で薩英戦争ということになりました。
一方で、幕府が譲位を日本の方針として決定したことを受け、長州藩はそれを実際に実行することになります。
長州藩というと今の山口県ですが、山口は九州との境に関門海峡があります。ここは船舶の通行上非常に重要度の高い場所です。長州藩はこの場所に砲台を設置し、通行しようとする外国船を砲撃します。
この砲撃によって重要な海峡が通行できなくなることに憤慨した欧米諸国(アメリカ・イギリス・フランス・オランダ)は、連合して砲台の制圧にかかります。
砲撃事件(1863年)と連合艦隊による砲台制圧(1864年)には時間的に1年程度の開きがありますが、これら一連の流れを含めて「下関戦争」と呼びます。
白黒ではありますが、当時の様子が写真になって残っているところから、それほど遠い過去ではない事件なのだと思い知らされます。
Wikipediaの情報によると、鹵獲された大砲の数が62門となっています。どれだけの数の砲台で通過する船を砲撃していたのかと、驚かずにはいられません。
結果は連合軍によって制圧されてしまったわけで、長州藩としては「力の差が歴然」であることを認めざるを得ませんでした。この戦争後は、「攘夷」思想よりも「近代化」を優先するようになり、さらにその近代化を阻害する幕府を「倒幕」する必要性を感じ始めます。
1866年 薩長同盟~国内是正のために団結
生麦事件~薩英戦争で苦い思いをした薩摩藩と、下関戦争で外国の軍事力を思い知った長州藩は、それぞれが近代化を急速に進め、外敵と戦える力を蓄え始めます。
悲惨な事件ではありましたが、結果として「日本の国、自分たちの生きる場所を守るため、戦う力が必要」と気づいた形です。
長州藩は「倒幕」思想を強め、軍事行動を起こし始めますが、幕府から「朝敵」認定され、長州征伐と言われる軍事制裁を受けることになっていきます。
薩摩藩は幕府の政治を改革しようと働きかけていきますが、それらは上手く進まず、大久保利通や西郷隆盛などにより強硬的な行動が必要という考えが高まり始めます。
日本を何とかしなければと動きを開始した薩摩と長州ですが、元々は過激派と穏健派の様な思想の差があり、両者の中は良くありませんでした。ですが、有名な坂本龍馬を始め、多くの人が薩摩と長州の関係者の会見の場を設けるなどで仲介し、結果として薩摩と長州が手を取り合うことになるのです。
1866年に取り交わされたこの同盟は「薩長同盟」と言われ、薩摩藩と長州藩の政治的・軍事的な協力関係を約束したものとなっています。
悲惨な事件で外国の強さと日本政治の改革の必要性に気づいた二つの藩が、近代化を進めて、旧体制の打破に協力するという体制です。日本を守るという強い意志が感じられます。
ただ違う視点でこの薩長同盟について考えてみると、政府を転覆させるという「クーデターまたは革命」のための軍事的準備を始めたということでもあります。
1868年 そして大政奉還~明治維新へ
薩摩・長州藩を中心にして倒幕軍事行動が始まり、近代装備相手に幕府は劣勢となり、1868年に徳川慶喜が大政奉還したことで、江戸幕府は終わりを告げることになります。
明治になると、薩摩・長州藩の有志による近代政治が進められ、この体制は藩閥政治と言われ、大正時代に大正デモクラシー(民主化)によって政党政治になるまで続くことになります。
まとめて振り返ってみると、この激動の時代を以下のように見ることができます。
- 江戸時代 -
1850年代 : 外国からの不当な圧力に屈し続け国内不満が高まる
1860年代 : 大老暗殺以降、事件が多発し政府転覆へ
- 明治時代 -
ペリーが日本に開国を迫って、たった18年の間に日本の政府が転覆していると考えると、非常に恐ろしいことだと感じます。しかも、クーデーターの様な政府の頭が入れ替わるとかそういう次元ではなく、完全に政治体制や国の運営すべてが変革しているので、これは軍事的な革命行為です。
その後、革命に成功した日本は、アジア(極東)に位置しながら、急速に近代化を進め、現代日本を経済大国へと発展させました。ですが、この革命行為の先には悲惨な太平洋戦争という結果も待っていたのです。
まとめ - 富国強兵から戦争、そして敗戦へ -
明治維新によって近代化を進める日本は「富国強兵」と言われる、国を豊かにして強力な軍事力を構築することを目的としました。
当時の目下の目標は「江戸幕府の締結した不平等条約の解消」で、そのために強力な軍事力を示す必要があったのです。そもそも力がなかったために、軍事力で脅されて締結せざるを得なかったのです。(不平等条約の解消は1904年の日露戦争後なので30年近く掛かっています)
しかし、この富国強兵政策によって他国の思想を取り入れていくことになり、そこには「帝国主義」「植民地政策」という、人類史上稀にみる非人道的で不平等な思想が蔓延っていて、日本も諸外国に習ってその道を進み始めます。
結果アメリカを中心とした各国から日本に対する不当な圧力が始まり、日本はその「帝国主義」思想と戦うことになります。皆が一つの家として共同体となる思想「八紘一宇」というのは、後付けかもしれませんが、非常に素晴らしい考え方だと思いますが、この思想も戦後GHQによって禁止されてしまいました。
最後に、戦後アメリカが敗戦した日本を裁く極東国際軍事裁判(通称東京裁判)の中で、石原寛治が「ペリーを連れてこい」という発言をしたとする動画を紹介して締めくくることにします。鎖国していた日本を軍事的な圧力で開国させたことこそ、この悲惨な戦争の発端であるというのです。
現代の日本の政治 - 国防に対する不安と衆議院総選挙 -
私たち現代の日本は平和ですが、近隣諸国との関係は良好とは言えない状況です。中国による台湾への軍事的な威嚇も頻繁で、それを支援するアメリカとの緊張も高まっています。日本も「いづも」や「かが」の空母への改造をするなど、国防を強化してはいますが、本当に私たちは日本を守り切れるのでしょうか。アメリカ軍を当てにして、他国と比較して非常に国防予算も軍事力も低い日本について、不安に思うのです。
経済や新型コロナ対策も重要ですが、国防についてもしっかり向き合って考えてくれる、そんな政府に日本を指揮してほしいものです。
明日2021年10月31日は、衆議院総選挙の投開票日です。忘れずに投票しましょう!
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