2022年5月31日火曜日

「生きる」意味を考える | 闘病から解放されたい人間の戯言

event_note5月 31, 2022 editBy Fluffy Knowledge forumNo comments

生きる意味を必死に考えてみる


「苦しみ」→「生きる」→「幸福のため」?

衣食住や闘病を含め、生きていくことは苦しみを伴う。
人間社会においては働かなければ生きていけない。
生物界でも食事のために狩りをしたりなど、自然の中で生き延びるために必死だ。

そうまでして「生きる」のは何のためだろうか。

この問題について調べると、仏教などの宗教を中心に「幸福のため」に生きるのだという説明や説教が山ほど見つかる。

この見解については、個人的には違和感しかない。


今日はいよいよ終わりを見つめながら、人の生きる意味のような大きな問題から、自分の身近な問題などについて、頭の中を整理しながら書き出してみます。


「生きる」ことは本能で、幸福は苦しみの緩和


生物はこの世に生を受けると、唯々本能に従って生きようと必死にもがき苦しむものだと考える。

生きる意味を「幸福のため」という理論が私に届かないのは、幸福は苦しみを緩和させるための措置であり、生きる目標や原動力ではないと考えるからだ。

(説教理論) 生きる意味
「苦しみ」→「生きる」→「幸福」

(私の考え) 幸福とは
「本能」→「生きる」→「苦しみ」→「幸福による緩和」


では何のために「生きる」のか


家賃や食費のために、労働をして対価を得る。
寝て起きて新しい日が来ると、同じように労働をして生きる。

幸福を目指して生きることができる人は、苦しみよりも得られる幸福の方が勝っているのだろう。重大な病気を抱えると、幸福であることを目指す前に、「生きる」ことすら難題になる。健常だったころの苦しみとは比較にもならない。

そんな人に対して「幸福」の話をしても届くはずもない。普通に生きることができていればその過程で発生する苦しみの緩和に幸福は有効だと思うが、そもそも生きることが難しいのだ。

では、人は何故苦しみを背負ってまで必死に生きようとするのか。生物としての本能に従い生き続けるためにもがくだけなのか。


人の役に立つ、やりがいがある、は個人の幸福と同じ


自分の経験や知識を活かして、人に役立つことをしようと自分を奮い立たせ、病気と闘いながら可能な限り生きる努力を続けてきた。

人の役に立つ仕事や一般的にやりがいのある仕事というのは、それだけで生きる意味になるとする考え方がある。私も自分をそう言い聞かせてきたと思う。

しかし、よくよく考えてみると、それは個人的な充足感、達成感といった幸福を得るための行為に相違ないのだ。

「本能」→「生きる」→「苦しみ」→「幸福」

ゲームをしたり映画を観ることと、人の役に立つとかやりがいがあるといったことは、本質的には同じという結論に達した。


この構造で生き続けるためには必須条件がある。
それは、得られる幸福が必ず苦しみに勝っていなければならない事だ。

「幸福 > 苦しみ」

苦しみは、労働そのものも当然含むが、衣食住や闘病も当然含まれる。


苦労して生きて何をしたいのか


色々考えてみたが、結局のところ、生きる苦しみを超える幸福を見つけられなければ、「生きる」ことができないという結論に達した。苦しみを享受してでも得たいと思える幸福である。

人から信頼されて、十分な収入を得て、結婚して子供もいて、好きなことは何でもしてきたつもりだ。やり残したことはなんだろうと必死になって考えるが、正直何も思いつかない。

もちろん行ったことない場所や、知らないことも沢山あるし、それらを知ることで世界が広がってやりたいことも増え、その活動には限界がないことも十分知っている。身近な所では、インターネットで情報を漁っているだけでも十分に些細な幸福は得られている。

しかし、身近な些細な幸福と生きる苦しみを比較した時、生きる苦しみの方が比較にならない程重いのだ。

生きる苦しみを超える幸福を見つけることは、思った以上に難しい問題だった。


闘病に苦しんでも安楽死できない日本


もう人生には疲れた。

治らない病と闘い続けてもう4年。病院を変えて新しい治療を受け始め、少し病状改善の方向ではあっても、かさむ治療費で明日の食事もままならない。

体調がよいとき、働けるときにだけ働いて収入を得るという成果報酬型の在宅仕事を必死に行って幾分かの生活費を稼ぐが、健常者と同じように働くことができなくなっても妻は働いて家計を助けることもなく、日がな一日家でテレビとスマホで悠々生きている。自分のストレスにしかならず、これは離婚で解決するとしても、家の支払いと食費に加えて、治療費も確保しなければならないという問題は変わらない。

正直、今の仕事だけではこの生きるために最低限必要な金銭収入を得ることは非常に難しい。

自分自身で生きていくことができないなら死ぬしかない。
人に迷惑をかけて生き続けたいというほど厚顔無恥ではない。

苦しみを乗り越えてまで得たい幸福があるわけでもない。
もう苦しみから解放されたいと切に願うが、日本国では安楽死は法的に許されていない。

自殺するしかないのだ。


悲しむ人のことを考えるという論法


自殺を考えると、悲しむ人がいるという説教をよく耳にする。

正直な話、そんなことは知ったことではない。生きるか死ぬかの問題を考えている時に、人が悲しむとか程度が低すぎてどうでもいいことだ。

生きることの苦しみを解決する妙案でもないのであれば、現状の問題解決が成されず、自殺しかないという道は変わらないのだ。人に迷惑を掛けたり悲しませようという目的ではなく、やむを得ない事情でその結論に達しているのだから、その事情が解決されなければ結論も変わることはない。

残念ながら、精神的な論法だけで、論理的な解決を考えない人からは、この妙案を得ることは難しいだろう。


残念なのは身近な人にすら精神疾患があるとされること


本当に残念なのは、病気で体を動かしたり人前にでることが難しいという状況であるにもかかわらず、引き籠りのうつ病といった精神的な疾患の類と考えられ、身近な人であっても本気で理解しようとしなかったことだ。

病状悪化して、体中出血して動くことができず、食事をすることもままならない状況で、普段は連絡もしない親に状況を連絡すると、現金とうつ病について記された紙が届けられたのだ。

足の皮膚が癒着硬化して膝も伸ばせず、トイレに行くことも困難な状況で現金を渡されても、使う事すらできないと考えなかったのだろうか。そして、病院に行け、普通に働けという。当たり前のことだが、連絡しているのは、そんなことを論じたいのではないのだ。大変な時は連絡をよこせというから、明日の命を維持することも難しい状況に至って連絡しているのだ。親に対して将来の話はそもそも相談しない。

理解しようとしていない。

うすうす感じてはいたが、直近の病状悪化への対応で、親を含めて自分の現状を理解して本気で考えてくれる人はいないのだと確信した。病気が大変で動けず苦しいという連絡を受けて、引き籠りがお金を要求してきたとでも思ったのだろう。

そんな人たちが「悲しむ」とか、へそで茶どころの話ではない。


病状によって気分が上がり下がりするのは精神疾患なのか


病気は病院で治すもの。
健常者でありつづけると、現代医学に対する絶対的な信頼が構築される。
私もそうだった。

しかし、何年も治らない病気と闘い続けると、この牙城はたやすく崩れる。医療も万能ではないのだ。世の病気には、薬で直ぐに症状が治るものもあれば、症状を抑え込むだけのものなど、色々と種類がある。現代医学で治すことができない疾患なんて山ほどあることに気付かされる。

私の皮膚の疾患は免疫の過剰反応で、一般的な花粉症の全身版みたいなものだ。
体の免疫反応が狂ってしまっていることが根本原因で、この免疫機能を正常な状態に戻すことが現代医学に可能なのであれば、世の中から花粉症という毎年苦しむ病気もなくなっていることでしょう。抑え込むことはできても、根本解決はなかなか難しいので、良くなったり悪くなったりを繰り返しやすい。

病気の状態が良く、睡眠も十分とれた日は、起きた時間が夜であっても晴れやかな気持ちで一日が始まるものだ。

病気の状態が悪く、睡眠も殆ど取れないまま、寝ることを諦めて起きている時間は、憂鬱で苦しい日だ。

日によって明るい気持ちと暗い気持ちがあるのは、病気であればある程度仕方のない事だと思うし、かかりつけの医者に妻が問うと、同じように回答をされていた。


自分自身は、健常だったころとまったく考え方は変わっていないし、現状をしっかり理解して必要な行動をとってきたつもりだ。もちろん、健常だったころと行動は変わっている。


精神疾患と宣う輩は、基本的には健常だった時と異なることについて、精神に異常があるのだと短絡的に結論付けて、考えることを放棄してしまっていると考えられ、こちらからすると余程そちらのほうが精神に問題があると思えて仕方がない。

体調の変化に伴って、生活スタイルや人生設計を見直さねばならない状況であるにもかかわらず、健常者同様に働こうとしないのは精神疾患と断定することは、ある意味凄いことだ。

うつ病と諦めてしまうのは簡単だが、その方がよほど非建設的で人生を諦めていると思うのだ。


残りの人生について


さて、かなり頭も整理されてきたし、言い残したいことは書き綴った。

離婚の手続きや娘の今後の振舞い、在宅仕事でお世話になった企業様との連絡や住宅ローンでお世話になった銀行さんなんかと、最後の手続きを進めなければならない。

正直もう終わりにするのだから、どうでも良い事のようにも思えるが、死ぬ時もできるだけ人に迷惑はかけたくない。

暑くなる前に終わらせたいものだ。


気になっているのは「いのちの電話」


厚生労働省が、日本の自殺率低下を目指して行っている「いのちの電話」というサービスがある。

普通の人では体験することが難しいと思うが、ここまで整理できているのであれば、一度どの程度の問題解決能力があるのか試してみるのも悪くない。どうせ死ぬのだから。

もしこのサービスを使って、自殺に対する考え方が改まったのであれば、その体験を広める行為で収入を得ることすらできてしまうかもしれない。

ただ、現状や経緯を説明するのが面倒な上、身内にすら理解されない状況を他人が理解して行動を起こしてくれるとは考えにくい。

骨は折ったが解決できず、で余分な苦しみを受けて死に至るのは嫌だという気持ちもあるし、相談したのにも関わらず死を選ぶと、相談を受けてくれた人には申し訳ない気もする。

どうしたものか。


葛藤とお詫び



今も、「どうせ死ぬから何もかも面倒」という投げやりな考えと、「それでも何か道があるかも」という建設的な考えの狭間で、葛藤し続けているようだ。

考えを書き出すことで整理しようとして、酷い情報をネット社会にたれ流そうとしているが、何か妙案に辿り着いたり、誰かの役に立つこともあるかもしれない。思ったことは伝えよう、と言い聞かせてPCに向かっている。

この情報を目にすることで不快な思いをしてしまったら、本当に申し訳ない。
世の中の他の楽しいコンテンツでも見て、どうか忘れてもらえたらと思います。


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