ABCD包囲網 - 機械的に覚えた記憶しかない
学校で歴史を習った時に出会う「ABCD包囲網」ですが、受験勉強などで覚えるために、アメリカ・イギリス・中国とオランダ(Dutch)と、何度も繰り返し唱えた記憶があります。
アメリカ・イギリスは学生時代でも有名な国として認識していて苦も無く覚えて、中国はChinaだからと覚えやすかったものの、Dutchのオランダは苦労した気がします。
しかし、大人になってよくよく考えたら、地球の裏側と言ってもいいオランダが突然出てくることに違和感を感じるようになりました。今回は、そんなABCD包囲網のオランダについて解き明かすところから始め、太平洋戦争前後のアジアの状況を振り返って考えてみます。
太平洋戦争前のアジア - 植民地
太平洋戦争(大東亜戦争)が始まるよりも前に、日本は中国と日中戦争を始めるわけですが、それよりも前のアジアの状態を見てみます。
いい地図がないかなぁと思ったら、このお話結構Twitterとかでは話題になっているようで、類似した地図画像が沢山見つかりました。その中でも個人的に分かりやすかった地図を採用してみます。作成者の人に感謝です。
アジア圏では、植民地になっていない国は、「大日本帝国」と「タイ」しかありません。
ABCD包囲網については、それぞれ遠い国という訳ではなく、ヨーロッパ勢力が直ぐ近くまで来ていて、彼らが大日本帝国に対しても同じように圧力をかけて植民地化を目論んでいたことが容易に想像できます。
オランダの植民地 - インドネシア
上記地図で、オランダの名前も登場していることが確認できます。
オランダは、アジアのインドネシアを植民地としていました。オランダは他の列強よりも植民地が少なく、ほぼこのインドネシアだけという状況で、彼らにとっては重要な地域でした。
後ほど詳しく述べますが、インドネシアはこの時代非常に貴重な石油産出地域でした。
日本とは、鎖国していた江戸時代にも、特別にオランダとは交易を行ったりと、長い歴史上の付き合いがあります。
ちなみに、日本で呼んでいる「オランダ」というのは正式名称ではありません。英語のDutchも同様に正しくなく、正式な国名は「Netherlands」となっています。海外の報道とか番組内で、Netherlandsと言われても、日本人はそれがオランダである事に気づけない人が多いような気がします。
詳しくは以下の記事で紹介してあります。
タイが植民地にならなかった理由
アジアの国々の中で、欧米諸国に植民地にされなかった日本とタイですが、日本が海に囲まれているのに対して、タイは周り全部をヨーロッパ諸国が取り囲んでいます。
こんな状況の中で、タイが独立し続けられたのには理由があります。
タイの軍隊が強かったとか、ヨーロッパの国と特別仲が良かったとかではありません。何とこれも欧米諸国側の都合なのです。
タイは、東側をフランス、西側をイギリスに挟まれる形となっていますが、この真ん中をどちらが取るかということで、イギリスとフランスのにらみ合いとなっていまい、結果「緩衝地帯」として残ることになりました。
後述しますが、タイはその後日本と同盟を組み、アジアの植民地支配からの脱却に向けて、共に戦うことになります。
太平洋戦争の前哨戦 - 日中戦争
世界恐慌の影響もあり、不景気な日本は、軍部の暴走によって始まった満州事変以降、中国の領土を切り取り始めます。
力の強い国が、他国の領土を植民地化するというのは、欧米列強が取っていた植民地政策そのもので、日本が特別なことをし始めたという訳ではありません。現代の感覚でいうと、他国を侵略したり、力でねじ伏せるようなやり方は異常に感じますが、当時のことを現代の感覚で推し量ると、様々なことを読み間違えますので注意しましょう。
盧溝橋事件をきっかけに、日中の対立は本格的となり、日中戦争が勃発します。
この風刺画は特に有名です。中国の領土を、各国が我先にと切り取り合戦をしている様が表現されています。
日本だけは責められ…日本の国際連盟脱退
日本は第一次世界大戦以降、国際連盟(League of Nations)という各国が集まって様々なことを決定する組織に加盟していました。
この「日本の中国に対する植民地政策」について、各国から非難を浴びることとなります。
当時、欧米諸国が早い者勝ちと進めてきていた植民地政策を、後から始めた日本の場合は許さないという理不尽さです。当時のこの交渉や他国への説明をした人たちの気持ちを考えると、何ともやるせない気持ちになります。
ともあれ、そんな先輩方とはお付き合いしきれないということで、日本は国際連盟を脱退することにします。そもそも日本の経済状況を立て直すためにも、国外へ解決を求めるしかないような状況だったとも言えます。
石油の禁輸措置 - ABCD包囲網
それでも止まらない日本の中国へ対しての植民地化に対して、アメリカが中心となって日本への経済制裁が始まります。最初はアメリカだけだったのですが、徐々にアメリカが各国を説得して回り、日本への経済制裁を行う国が増えていきます。
様々な貿易品が制裁対象となったのですが、致命的になったのが「石油」についてです。
「石油」は、軍の維持には欠かせないものですし、既に一般の家庭生活でも車を始め、多くのもので石油が常時必要な状態でした。日本は国内に石油の資源を持っていないため、完全に貿易頼みで、これを止められると人々の生活にも多大な影響がでてしまうという状況です。
アジアで石油の産出量が大きいのは、オランダのインドネシアです。
オランダと日本は長い歴史上の関係がありましたが、アメリカによって口説き落とされてしまい、ここにABCD包囲網が完成することになるのです。
日本はさらなる戦争を可能な限り回避するよう、最大限の外交努力を積み重ねますが、交渉相手の先輩方は、さらに無茶な要求を突き付けてくる始末です。
ここで日本は決断をします。
まずは必要な「石油」を確保する事。
そして、欧米諸国先輩方によって、不当に支配されてしまっているアジアを解放し、アジアで手を取り合う体制を目指そうと。
日本は石油を目指して南方作戦を
石油を目指す際、アジアで産出量が多いインドネシアに目を付けた日本は、そこを目標に定めます。
つまり、日本から南方面にはびこる欧米諸国の植民地を解放しつつ、新たな連携体制を築いていこうとしたわけです。
日本から「インドネシア」に向けて南へ進むと、間には「フィリピン」があります。今は「フィリピン」の場所は、当時は「アメリカ合衆国の領土」です。アメリカの植民地だったわけです。同じ地図をもう一度張っておきます。
避けて通れない道だったため、フィリピンを攻めるか、同じアメリカの領土であるハワイ・真珠湾を攻めて開戦するかを検討した結果、真珠湾への奇襲攻撃が決定されたわけです。
真珠湾攻撃の後は、電撃的な速さで東南アジア各国の欧米諸国を追い出していきます。
大東亜共栄圏の夢
日本は、石油の経済制裁などで開戦が不可避な状態に追い込まれると、その根本である欧米諸国の植民地状態のアジアを解放し、「アジアに新しい秩序の確立」を目指し、大東亜共栄圏の政策を打ち立てます。
日本が中心となりましたが、この構想への参加国は以下になります。
- 大日本帝国
- 満州国
- 中華民国 (汪兆銘政権)
- フィリピン第二共和国
- タイ
- ビルマ国
- 自由インド仮政府
前述の通り緩衝地帯で植民地化されなかったタイをはじめ、日本が南下しつつ解放したアジア各国が参入する形となっています。ただ、この時点のアジア各国の政権は、日本が暫定的に立てた、いわゆる傀儡政権だったともいわれます。
満州については、戦前から開発を行っていた歴史があり、それについては別途詳しく記事にしてありますので、興味がある方はご覧ください。
しかし、各地で地元の方々で構成された、戦争できるだけの力を持った軍や武器などを配備したこともあり、戦後にそれぞれが元の独立を果たしていくことになります。
細かく戦争の流れをまとめた動画をYoutubeで発見したので、ここで紹介しておきます。興味のある方はどうぞ。
戦後 - アジアは植民地から独立へ
第二次世界大戦が終わった後、素直に各国が独立できたかというと、そんなことはありませんでした。なんと、日本が解放した各国を、元の欧米諸国が再度元のように植民地状態にしようと戻ってくるのです。
しかし、日本占領下において創設された民兵や、軍備などで独立化の動きは活発で、それぞれが抵抗するようになり、順次無事独立を勝ち取っていくことになります。逆に、日本の占領を良しとしないベトナムなどでは、抗日運動としてのゲリラ活動が、その後の独立にも影響を与えたともいわれています。
特にベトナムでは、戻ってきたフランス軍と果てなき独立の戦いが繰り広げられ、アメリカが介入したことで泥沼化し、最終的にはフランスもアメリカも撤退し、ベトナム側が社会主義国としての独立を勝ち取ります。この一連の流れの戦争は、ベトナム戦争として知られていて、非常に痛ましい傷跡が多く残っています。
日本の同盟国タイは戦勝国へ
タイは、大東亜共栄圏に参加もしている、いわば日本の同盟国であったわけですが、戦争終了後の外交交渉で戦勝国側の立場となります。
戦争中はどちらに転んでも良いように、双方に外交的な働きかけをすることはよくある事ですが、タイは日本との同盟は署名が不足していて無効とか、様々な理由を付けて被害者としての立場を正当化し、責任を問われない状態へ交渉を運びます。
個人的には、日本の戦国時代の真田氏が、豊臣方と徳川方に息子2名を分けて参加させ、家の断絶を防いだことのような知略を感じます。
インドは3つの国に分裂
戦後のインドは、イギリス領からの独立を成功させます。
マハトマ・ガンジーの活躍が有名です。非暴力不服従を掲げ、塩の行進等、支配への不服従を非暴力で訴える活動を行い、世界の世論が動き、イギリスがインドの独立を認めざるを得ない状況になったとのことです。
しかし、イギリスの残した爪痕は大きかったようです。
イギリスが統治を円滑に行うために、インド内のヒンズー教・イスラム教の対立構造を作っていたため、独立後に宗教的な内紛状態へと陥ります。ガンジーは両者歩み寄って一つに纏まろうと働きかけますが、残念ながら本来見方であるはずのヒンズー教徒から暗殺されてしまいます。
その後、インドはヒンズー教を基にした現在のインドと、イスラム教のパキスタンに分かれます。しかし、パキスタンの区域が、インドの東西に二分される形となってしまったため、さらに独立運動が起きてしまい、結果として東側の東パキスタンが独立し、現在のバングラディシュとして独立します。西パキスタンだったところが、現在のパキスタンです。
結果、イギリスの植民地から解放はされましたが、国としてはインド・パキスタン・バングラディシュといった三つの国に分割してしまうことになりました。
ちなみに、このパキスタンとインドの対立構造は今も根深く残っています。
パキスタンは、インドとは逆の「西側の国」と仲良くしようとします。結果、西側の国「アフガニスタン」と協力し、パキスタン内にイスラム原理主義の学校を多く作って、「タリバン」が生まれることに繋がってきます。過去の歴史のようですが、現在進行形の問題とも言えます。
残念なことに、このような植民地政策の爪痕のような場所が世界中にあります。
まとめ - 世界の倫理観は成長途上 -
2021年現代に生きていると、他国を侵略して植民地化することが常態化していた世の中とか、ちょっと想像が難しいですし、外交の選択肢で戦争が普通に選ばれていた時代も、すごい時代だと思ってしまいます。
ですが、そうやって人間は過ちを犯し、過ちに気づき、そしてその過ちを正して、可能な限り正しく平等で、そして何よりも平和であろうと努力しているのだと思います。
個人的に、これら歴史を学んで重要だと思うのは、もちろん過ちの歴史を知ることは重要ですが、それ以上にこう思うのです。
現代の世界の倫理観だって成長途中なのだと。
今の我々が正しいと思ってやっていること、世界の常識と思っていることだって、今後の未来で正され、振り返って異常だと思われることもあるでしょう。完成された考え方などないことを知り、正しくあるためにどうするのか、常に考えることで、人の世界は進歩するのだと確信しています。
それと、安易に経済制裁とか、外交的な圧力をかける政策も、とても恐怖を感じます。
かつての日本や、ドイツが、行き詰って止む無く戦争へ踏み出した歴史を知ると、制裁を受けた国が爆発するのではないかと。そして、その制裁は本当に正しいことなのでしょうか。自分のことを棚に上げて、遅れてきた後輩にだけ無理な論理を押し付けていたりしないでしょうか。心配です。
最後に、人類皆平和でありますように。
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