反出生主義の女性が考える妊娠・出産
今回は、とても考えさせられるnoteに出会ったので、そのことに対する自分の思いを綴りながら、改めて反出生主義について考えていってみます。
出会ったnoteのページについて、リンクを置いておきます。
この文章には、「反出生主義」と「女性の出産」に対する、女性目線での葛藤がとてもよく纏まっていて、非常に考えさせられます。
現在の倫理感で反論が難しい反出生主義
「反出生主義」については、ここでは多くを語りませんが、ロシアンルーレットと同義と位置付け、一定確率で不幸を生む「出産」を倫理的に「行うべきでない」とする理論です。
病気や貧困など、生まれ持っての不幸だけでなく、成長過程でも親からの暴力や学校でのいじめなども含め、不幸はなくなりません。また、小さな幸福を獲得するため、成熟した後も労働という不幸を一生背負わなければなりません。
宗教的にも、「老い」や「死」という究極の不幸からは逃れられないとされ、そのことで思い悩むことを止めなさいと仏教の教えにもある通りです。この避けられない不幸の元凶も出産にあるとします。
現在我々が正しいとする「倫理観」や、それに基づく「法律」ではこの思想に対抗することは難しいでしょう。
従来からある「出産」に対する価値観
しかし、元来生物というのは、オス個体とメス個体が生殖行動を行い、「出産」をして子を成すのは当然の行為であったはずです。子を産むことが悪とされるのは、生物学的な観念からすると異常でしょう。
人間の社会でも、男と女が愛し合い、結婚、そして出産するというのは、ごくごく自然の流れです。法的にもなんら問題がなく、むしろ出産は喜ばしい、めでたいことでしょう。
日本社会でも、少子高齢化は問題視されており、人口は減少傾向を続けています。政府としても、この問題の対策として、子供の養育をサポートする様々な政策を実行します。この問題が顕著な韓国に至っては、世界中で最も出生率が低く、なんと韓国の人間は22世紀には絶滅する予測が立っているほどです。
反出生主義での「出産」 - 女性から男性へ贈るモノ
そんな世の中とは関係なく、近年「反出生主義」に賛同する人は後を立ちません。恐らくその人たちの多くは「人類が滅亡すべき」とまで大きな思想を抱いているのではなく、「不幸を生み出す可能性のある行為を慎むべき」といった、身近な問題と対策として受け止めているのでしょう。
「他人を不幸にする行為」 = 「他人を不幸にする可能性のある行為」と考えると、殺人・窃盗などという一般的に悪とされる行為と、出産という元来善だったはずの行為も同義と捉えられるのです。
しかし、「出産」という女性のみに与えられた素晴らしい能力は、現代社会において、愛する男性に対して発揮する「最大の能力」とも言えるでしょう。結婚した男性から、「子供が欲しい」と言われると、反出生主義の女性はどう考えるのでしょうか。
今回のnoteを執筆した女性は「恋人が欲しがっている、子どもという『モノ』を与えてあげたい」としています。この一文は本当に大きな衝撃を私に与えました。
エゴの産物 - 母親の想い
反出生主義の「出産」について、同女性は次のようにも述べています。
反出生主義であることと、「好きな人との子どもを持ちたい」という欲求を抱くことは両立する。
これは、非常に興味深いと思います。つまり、産むべきでないと分かったうえで、好きな男性に対して子供を産みたいという、「出産」に対する複雑な感情が感じられます。このことについての女性の考えをまとめたものを少し抜粋して紹介します。
(抜粋)
もし子どもという存在を人権のない、苦しめても傷つけても構わない「モノ」だと思えるのならば、私たちは喜んで恋人にそれを与えてやるだろう。
(中略)
しかしそれは、言うなれば「好きな人のための出生」である。そこに将来生まれてくる子どもへの懸念や配慮は一欠片もない。
この文章は、本当に私の心を締め付けました。
子供に対する親の、母親の愛というのは何処へ行ってしまったのでしょうか。幻想だったのでしょうか。自分のお腹を痛めてまで生んだ子が愛せないはずない、そうじゃなかったのでしょうか。
こんな親の思いで生まれてきた子が、不幸にならない道があるのでしょうか。
反出生主義の母親の葛藤
この女性は、この出産に対する思い以外にも、相手の男性と別れるべきなのではないかとか、様々な葛藤を述べています。反出生主義の女性以外と結婚すれば、いわゆる普通の結婚生活、子供との幸せな家庭が築けるはずだからです。
この葛藤、悩みは、自分が誠実で正しくあろうとすればするほど、その倫理観が自身を追い詰め、苦しめるという、恐ろしいものです。元来、正しくあろうとすれば、皆が幸せになるはずなのです。ですが、出産という行為は、親は幸せになるかもしれませんが、子は幸せが保証されません。つまり、どこまで行ってもこの葛藤が消えることはないですし、むしろ深まるばかりです。
これは、以前にも何かの記事で書いた通り、残念ですが現状の倫理観では打ち破れません。
同女性は、この様々な葛藤や、女性から男性へこの考えを伝える方法など、身近な問題の解決への論議を呼びかけていますが、残念ながら私自身はその問題に対するよい考えは思いつきません。あえて恐れず言うならば、問題があれば「話し合い」すべきでしょう。相手の考え、自分の考えを素直にぶつけ合うのです。大事なことなので書きますが、決して攻撃してはいけません。その上で、お互いが納得できる解決方法が見つかればよいですが、そうでない場合は最悪離縁となるでしょう。ですが、どんな結果であっても、きっと「納得」はできるはずです。
法整備や医療の発達などで、この問題を解決しようと人々は努力を続けていますが、「完全」に人間の一生から不幸を取り除くことは不可能でしょう。
まとめ
「不幸」と「幸福」は表裏一体なものです。
「幸福」と感じるのは、そこには「不幸」が存在するからです。すべてが「幸福」な状態で埋め尽くされると、それは既に「幸福」ではなく「普通」のことです。
つまり、人が幸福を追求し続けても不幸はなくならず、「反出生主義」がなくなることもないでしょう。
仮に、反出生主義が唱えられなくなるほど人間社会が幸福で満たされたとしたら、それは恐らく抑揚のない、無気力な世界、喜びも苦しみもない無の境地でしょう。
私は、この「反出生主義」を知るよりも前に子供をもった一人の男性です。この考え方を知ってからというもの、自分の子供は果たして幸せだろうかと、毎日葛藤を続けています。自分の人生は自分のものでって、他の人は例え家族であってもそれは彼女たちの人生だと思ってきましたが、自己の責任で生み出した我が子は、自分が責任をもって幸せにする「義務」があるのではないかと考えてやみません。
自分は「反出生主義」ではないと思っていますが、子に対する親の考え方については、倫理的にもっと成熟する必要があるのではないかと考えています。
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