先人の感性に惹かれる短歌の世界
歴史が好きな私は、過去の戦史や様々な宗教史など、色々なことに興味を持っています。その中で、同じ歴史好きの人にも中々理解されないものの一つとして「短歌」があります。
短歌は、日本の過去の人の残した素晴らしい文化的遺産の一つであって、当時の人たちの考えていたことなどを知ることが出来る大変貴重な歴史的意味のあるものだという認識です。私自身の中にあるのは、「歴史は昔だが現在と同じ」という感覚で、当時の価値観や社会的な背景の違い等はあるものの、当時我々と同じように人が生きていて、その中で色々なことを考えながら過ごしていました。学生時代、教科書などでそのことを読んでも、それはどこか別の世界、映画の中のように感じてしまっていました。それが、現実にあったことだと本当の意味を知ったときに、心の底から震えました。
短歌という文化
「短歌」というのは、多くの日本人が知っている通り、5・7・5・7・7の言葉数のルールの上で作成された、言葉遊びのようなものです。
この制約のある中で、どれだけのことを表現できるか、というところに多くの人が挑戦し、素晴らしい作品を生み出しているのです。今の感覚からすると、「何でそんなことを」と思ってしまいそうですが、当時の人たちからしたら、現代のゲームのRTA(Real Time Attack)とかと大して変わらなかったのではないでしょうか。「言葉」という世界の中での一つの「遊び方」だったのでしょう。
この素晴らしい文化的な遊びの中で生み出された作品の中で、個人的に興味を持ったり、共感したりして、「好き」と感じた、「印象」に残った作品をいくつか紹介します。
「花の色は」に感じる儚い美の切なさ
わが身世にふる ながめせしまに
小野小町 (9番) 『古今集』春・113
この短歌は、百人一首の9番に採用されている、小野小町の有名な歌の一つです。
現代語訳としては以下のような感じです。他サイト様から拝借しました。
桜の花の色は、むなしく衰え色あせてしまった、春の長雨が降っている間に。ちょうど私の美貌が衰えたように、恋や世間のもろもろのことに思い悩んでいるうちに。
美しいと評判だった小野小町ですが、ふと雨を眺めながら、色が悪くなった桜を見て、「あぁ自分も桜と同じで美しさがあっという間に衰えていくのだ…」と切なく歌ったものです。この歌からは、人が生きていた、ことをとても強く感じます。人の人生、栄枯盛衰は昔から変わらず常にあって、これは現代の人でも、美しさかどうかは別として、常にあり続けるもので、悩む人も多いことでしょう。
小野小町の時代でも、「女性は常に美しくありたい」という思いがあり、その歌が1000年以上伝えられているわけです。当時の女性の気持ちと、変わらない現代の女性のあり方などから、人々の歴史の長いようで短い、普遍的なところに感動せざるを得ません。
「鳥の空音は謀るとも」と詠む年上彼女
なぜ歌の歌いだしではなく真ん中なんだと突っ込まれそうですが、この歌の印象がこの部分で、直ぐに出てくるのは歌いだしではないのです。
夜をこめて 鳥の空音(そらね)は 謀(はか)るとも
よに逢坂(あふさか)の 関は許(ゆる)さじ
清少納言(62番) 『後拾遺集』雑・940
ちょっと難しい歌ですが、現代語訳としては以下のような感じです。同じ他サイト様から拝借いたしました。
夜がまだ明けないうちに、鶏の鳴き真似をして人をだまそうとしても、函谷関(かんこくかん)ならともかく、この逢坂の関は決して許しませんよ。(だまそうとしても、決して逢いませんよ)
相手の男性は年下で、ちょっと強気で攻めている感じになっています。しかし、その怒りとともに、鶏の鳴き声を真似して関所の門を開けさせたという中国故事からの引用を取り入れて、技巧的にも面白い歌になっているところが清少納言の凄いところです。「鶏の鳴き声を真似る作戦」というのが印象的で、「鳥の空音は謀るとも」が忘れられないのです。現代的な解釈では「どんな言い訳しても許さないんだから!」という感じでしょう。
男女の関係は、歴史の中にずっとあり続けたことは間違いありませんが、短歌とLINEという手段の違いはあるものの、やっていることは今と何ら変わりありません。本当に面白いです。
現代語訳は同サイト様から。
返歌にみる年下イケメン(藤原行成)の言い分
実はこの歌には余談があります。
このお怒りのメッセージを受け取ったイケメンは、何と言い訳どころか相手を逆撫でするようなメッセージを返しており、そのインパクトが凄すぎて忘れられません。このやり取りは、清少納言の随筆として有名な「枕草子」に出てきますので、興味がある人は現代語訳もありますので、ご一読してみてはいかがでしょうか。
逢坂は人越えやすき関なれば、鳥鳴かぬにもあけて待つとか
(現代語訳 : 逢坂山は越えるのがたやすい関だから、鶏など鳴かなくても門を開けて待っているとかいう話ですが)
画像は「超訳百人一首 うた恋い。」という漫画からです。このシリーズは一部アニメ化もされていて、現代人にも非常に分かりやすく、楽しめる内容だった記憶があります。また機会があれば私も見直してみたいと思います。
さて本題に戻りますが、この歌は、相手の故事をさらに使って、相手をなじるような凄い歌です。あまり現代解釈について言及したくないのですが、要は清少納言は尻軽だから、誰でもOKなんでしょ?みたいな意味ですね。恐ろしい。こんなことを怒っている女性にいったら、普通は離縁待ったなしですが、清少納言は悔しいながらも、その筆跡のすばらしさなどに圧倒され、さらなる返歌が送れなかったと綴っています。
今よりも性的な事情がオープンで、一種の娯楽のような、駆け引きの遊びのようなところがあった時代ですが、男女のやり取りでのこの攻防は、現代人の感覚では恐ろしくて理解しにくいと思います。ですが、そういう感覚のずれを楽しめるこの歌の「歴史的な意義」は非常に大きいと感じるわけです。
「忘れじの」から感じる最盛期の女性の不安
さて、最後はやっぱりこの歌かな。女性の歌ばかりになってしまいましたが後悔はありません。いい歌に男性も女性もありません。
忘れじの 行く末(ゆくすゑ)までは 難(かた)ければ
今日(けふ)を限りの 命ともがな
儀同三司母(54番) 『新古今集』恋・1149
「いつまでも忘れない」という言葉が、遠い将来まで変わらないというのは難しいでしょう。だから、その言葉を聞いた今日を限りに命が尽きてしまえばいいのに。
「幸せで幸せでたまらない」という状態ですが、不安に駆られ、「幸せな今のうちに死んでしまいたい」とさえ思っているという歌です。幸せなのに、切なさが漂うこの歌は、現代の感覚でも理解できるところがありますが、死んでしまいたいほどとは、どれほどなのかとも思います。この女性の震える心情が伝わってきて、こちらも涙がでそうになります。
いつの世でも、男性は女性を幸せにしようと頑張り、「ずっと大切にする」と言い続けてきているわけですが、そんな庇護された女性の不安が見事に表現されているように思います。現代では男女の差は殆ど埋まり、女性が男性を逆に庇護する状態が生まれたりする世の中だったりして、これ自体も面白い変化かなとも思います。ですが、大事に大事にする余り、大事にされている方はこんな不安を抱えることもある…どうしろというのだ、と思っちゃいそうですね。
日本の全てを手中にしていく藤原氏の中心で、栄華を誇る男たちの裏で、女性はその幸せの壊れる不安を抱えていたという、懐疑的で現実的な視点を持った女性がいたとも考えられ、非常に興味深く思います。
男は盲目的
やっぱりこの歌も紹介しておこうと思います。男の歌は百人一首以外ばかりですが。
この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば
現代語訳が必要かどうか分かりませんが、「満月が欠けることがないように、この世はすべて私のものだ」というニュアンスです。藤原道長が詠んだとされ、藤原氏の絶頂期を表した、非常に有名な歌です。
藤原道長のお兄さん「藤原道隆」の奥さんが、上記「忘れじの」を詠んだ「儀同三司母」(高階貴子)です。
男女で見ると、女性が不安に思っている横で、男は「俺の世界だ~」と無邪気に詠んじゃっているのです。男性中心の世の中だったわけで、それらを全て掌握した道長の達成感や征服感は凄まじかったのでしょう。平安時代のこの藤原氏最盛期を、歴史的な事象だけでなく、女性の思いも合わせて一つとみると、当時の人たちの思いが色々見えてくるように思えてなりません。
まとめ
今回は珍しく短歌についての記事にしてみました。
日々目まぐるしく動く、世界情勢や、政治の状況などもありますが、遠く昔に読まれた短歌などから、当時の風景を思い浮かべ、ゆったりとした時間を過ごすのも悪くないですよね。
百人一首や万葉集など、様々編纂し、後世に残した方々には改めて感謝しかありません。このような文化的な遺産を、我々は後世に残していけているのでしょうか。100年、200年、いや1000年も残るような文化的な遺産です。建築物や電子部品のような造形物ではなく、言葉や文化的に誇れるものが現代にあるのでしょうか。いや、そもそもそんなものは必要ないのかもしれませんが。
我々が生きた物的な証ではなく、今の私たちが「どんなことを考えていた」のかも、良い遺し方があればいいな、と思うばかりです。
最後に、途中で少し紹介した「うた恋い」について、Youtube上で見つけたPVを張っておきます。短歌の美しい世界をアニメという分かりやすい世界で知ることが出来る、非常に有意義なものだと思います。日本人だけでなく、外国の方々にもお勧めしたいくらいです。
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