武士~近代国家 銃刀法の歴史
江戸時代から明治時代にかけて、様々な技術革新が日本国内で起こっていくわけですが、最も不思議なことは、やはり武士が闊歩していた世の中から、現在のように武器を持っただけで捕まるような安心安全な世の中へ変貌したことではないでしょうか。
少なくとも私はこの点が不思議でなりませんでした。
世界が変わりすぎだと思ったわけです。
廃刀令
武士が闊歩していた江戸時代から明治時代になって、思ったよりも早く刀を捨てる流れは出来上がっていたようです。
明治2年には、その議論が始まり、最初は否決されてしまうものの、翌明治3年には部分的に廃刀令(散髪脱刀令)が施行され、正式には明治9年には廃刀令が施行されています。
ただ、廃刀令は憲法がない時代なので太政官布告というものだったとのことです。
大日本帝国憲法~銃刀法
大日本国憲法では帯刀や銃の所持に関する法令が含まれていなかったため、以前に布告されていた太政官布告の廃刀令が有効とされていたようです。
その後は、戦後の昭和21年(1946年)にGHQより発せられた「銃砲等所持禁止令」により鉄砲等の所持が禁じられ、1955年に改訂され「銃砲刀剣類等所持取締令」と現在の法令に近い形になりました。改定を繰り返し、徐々にその適用範囲が拡大していき、1958年に「銃砲刀剣類等所持取締法」として施行されています。
1965年には、さらに輸入についての規制が追加され、名称の「等」の位置が変更となり、現在の「銃砲刀剣類所持等取締法」になりました。
まとめると以下のような流れです。
- 1867年 大政奉還
- 1869年 廃刀についての議論開始
- 1870年 散髪脱刀令
- 1876年 廃刀令 (大礼服並軍人警察官吏等制服着用の外帯刀禁止の件)
- 1946年 銃砲等所持禁止令
- 1955年 銃砲刀剣類等所持取締令
- 1958年 銃砲刀剣類等所持取締法
- 1965年 銃砲刀剣類所持等取締法
警察
流れは分かりましたが、刀を持っている人が多くいる中で、突然刀を捨てろと言われて素直に捨てられるでしょうか。怖くて捨てることを躊躇いそうなものです。
1876年(明治9年)の廃刀令の時点では、その前年(明治8年)に山県有朋の建議が影響しているようです。
「従来帯びていたのは倒敵護身を目的としたが、今や国民皆兵の令が敷かれ、巡査の制が設けられ、個人が刀を佩びる必要は認められないので、速やかに廃刀の令を出して武士の虚号と殺伐の余風を除かれたい」
つまり、もう警察が治安を維持しているのだし、個人が刀とか持っている必要はないだろうということのようです。
明治時代に入って、「廃藩置県」が行われ、各都府県に「警察」という機関が登場します。これは「武力によって治安を維持する機構」として、一般市民と違って銃刀で武装しています。この期間が日本国中に十分行き渡ったため、個人が自分自身を護身のため武装しなくても良いということのようです。
逆にいうと、警察が治安維持してくれている現代の感覚からは想像しづらいですが、当時は自分の身は自分で守らなければならなかったということですよね。怖すぎるのですが。
現在の銃刀法
現在の銃刀法は思った以上に細かく規定されていました。
刀剣類の刃渡りなどの定義から、許可を受ける場合の条件など、その規定は多岐にわたっています。罰則もかなり厳しいようです。
一部例を挙げてみると、銃の部品を輸入してしまうと5年以下の懲役となります。銃でも刀でもなく、その部品を持ち込んだだけでこの罰則なのです。
大きめのサバイバルナイフなどを所持する場合などは、違反していないか確認した方がよさそうな気がします。超インドア派な私は縁がありませんが…。
まとめ
普段テレビや一部報道でしか見ることがない警察ですが、世の中の治安への影響は計り知れません。不祥事や捜査に対しての問題を指摘されている報道なども目にしますが、彼らの存在がなかった時代は、道行く人が武装していたのだともうと、現代がどれだけ恵まれた世界なのかと思います。
ただ、現在の国の構造が終着点だと、そう考えてはいけないように思います。
武士の時代から現代は、格段の進歩があったと思いますが、現代の問題点などを十分に見つめ、より一層の改善をしていくべきでしょう。特に武装して威力による治安維持をする機構が一つだけというのが個人的には気になります。そのため、警察の問題を止めることができず、不祥事や隠ぺいなどといった問題が発生していると考えるからです。十分な力をもった監査機関のようなものが必要なのではないでしょうか。(もし現在もそのような機関があるとしたら、それは正しく機能していないと考えます)
次の時代から現代を見直した際、我々が武士の時代を思い出す様に、あの頃は酷い治安だったねと思うくらい、未来の治安が良くなっていますように。
核兵器廃絶について考えてみる
執筆時点(2021年08月)では、世界には核兵器がまだ10000発以上ある状態です。保有数の9割程度はアメリカとロシアで、その他にも10か国以上が保有しているといった状況です。国によっては増産しているところもあります。
今年の1月に「核兵器禁止条約」という国際条約が国連から発行されました。
これはとても素晴らしいことということで、執筆時点では80か国以上が参加を表明していますが、残念ながら核保有国はどこも参加していません。
今年の8/6広島、8/9長崎の平和式典で、各市長が政府にこの条約へ参加することの希望を表明していますが、現政府(菅政権)は参加しない方針です。
この核兵器の問題は、歴史上の銃刀法に近いものがあるように思えてなりません。
相手が銃器(核兵器)を持っている状態なので、こちらも銃器(核兵器)を持っている。そのため騒乱は起きませんが、片方が放棄してしまうとその限りではないでしょう。
では、銃刀法が上手くいったように、世界での警察的機構(圧倒的軍事力的機関)が治安維持し、各国が核兵器を放棄すればよいのか、というと、これは上手くいかない気がします。これには、その警察的機構が正しくあり続けることが重要となります。ですが、人間は弱い生き物で、権力を持って正常であり続けられるとは限りません。現に、日本の警察ですら、何か勘違いをしてしまっている人や、様々な問題・闇を抱えてしまっています。
現在の私の知識や考えでは、核兵器を如何にこの世から廃絶すればよいのか、その提案すらも捻出できません。ただ、核兵器禁止条約に参加しない、という政府の意見も理解できますし、核保有国が条約に参加できない状況であることも理解できます。もちろん、広島、長崎市長をはじめ、多くの人々がこの条約に参加して核廃絶を訴えることも理解できます。
ですが、おそらくこの方法ではだめでしょう。銃口を向けあって牽制している人の横で、私は銃を捨てまーすといったところで、彼らには関係がないのです。それどころか、2つの銃口がこちらを向く可能性すらあるでしょう。
共産党的な思想
同じ人間なのですから、そもそも「国」が分かれてしまっていること自体良くないのかもしれないと、なんか「宗教」じみた考えすら湧いてきてしまいます。たぶんこの究極的な平等世界を作ろうという発想が、共産主義の延長なのでしょう。
しかし、現在世界2番目の超大国に成長した中国(中国共産党)のとる国内外の施策は、その非人道的な手法などがあまりにも酷く、とても受け入れられません。一方、中国の方々全員がそういう人たちではないとも思っています。つまり、政治に問題があると。
人々が平等で、政府方針を国民の代表が決め、万民に対して有益な国家が生まれれば、全人類が平和でいられる、そんな世の中を作るためには、我々は何ができるのでしょうか。
それにしても、人は団結してどこへ向かうのが正解なのでしょう。
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